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両国界隈で赤穂浪士の足跡を探してみる【東京都・墨田区~江東区】

日本では師走の風物詩のひとつに「忠臣蔵」があります。以前この時期になるとTVドラマや特別番組などが企画されていましたが、最近はめっきり少なくなったようにも感じられますね。

そこで今回は、赤穂浪士たちが討ち入りした「吉良邸」を中心に、墨田区から江東区まで彼らの足跡を探してみたいと思います。

「江戸東京博物館」(隅田区)

討ち入りは12月14日でしたので、その数日前となる12月初旬に「両国駅」を目指しました。

皆さんが両国と聞けば、相撲の聖地である「両国国技館」や「江戸東京博物館」などを思い浮かべるかと思われます。ところが、両国には“アノ事件”が起きた屋敷があるのをご存じでしょうか?

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吉良邸跡(本所松坂町公園)…墨田区

意外かもしれませんが、47人の赤穂浪士が討ち入りした屋敷――「吉良邸」は両国(墨田区)にあるのです。

ここで「赤穂浪士による吉良邸への討ち入り」について、少しだけおさらいをさせて頂きます。

【赤穂事件】

元禄(江戸時代)の出来事です。赤穂藩主であった浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)は、江戸城・松之大廊下で高家(※儀式や典礼を司る役職)であった吉良上野介(きら こうずのすけ)を斬りつけてしまいました。

江戸城での刃傷沙汰(にんじょうざた)により浅野内匠頭は切腹を命じられるも、吉良上野介にはお咎めはなし。その後、赤穂藩は廃藩となり、領民は散り散りとなってしまったのです。

こうした理由から、大石内蔵助(おおいし くらのすけ)をはじめとした47人の浪士は、主君の無念を果たすため本所(現・両国三丁目)にあった吉良邸へと討ち入るのでした。

吉良邸正門跡

「吉良邸正門跡」(墨田区)

元禄15年12月14日、午前4時頃。大石内蔵助ら赤穂浪士たちは、用意した梯子を使ってこちらの正門から吉良邸へと侵入したそうです。

現在はマンション前に立札があるのみで、当時の雰囲気を伺うのは難しかもしれません。

「両国小学校」(墨田区)

両国小学校の裏手に「吉良邸正門跡」はあります。

ちなみにですが、近くの両国公園には「勝海舟生誕之地」の石碑が置かれています。

吉良邸跡

「吉良邸跡」(墨田区)

こちらは馬車通りから見た風景。左側にある和菓子屋「大川屋本店」さんでは、「吉良邸」や池波正太郎さんの「鬼平犯科帳」にちなんだ和菓子などが販売されています。

「吉良邸跡」(墨田区)

この印象的な白い塀(なまこ壁)の内側が「吉良邸跡」になります。

ちなみに、向かって左側に歩いていくと「吉良邸裏門跡」の立札を見付けることができます。

「吉良邸跡」(墨田区)

「吉良邸跡」の前には「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」の石碑が。

「吉良邸跡」(墨田区)

“都指定旧跡”の「吉良邸跡」は「本所松坂町公園」として地域の人々から愛されています。

吉良邸内の見取り図。
「吉良邸跡」(墨田区)

正門と裏門の位置からも分かるかと思いますが、当時の「吉良邸=吉良家上屋敷」の敷地は、約2550坪(約8400平方メートル)と広大なものでした。ところが、赤穂義士らの討ち入り後は幕府に没収されたそうです。

現在「吉良邸跡」として残された敷地は29.5坪(約93平方メートル)なので、当時と比べたら86分の1程度となってしまいました。

「吉良上野介義央公座像」(墨田区)

敷地内の奥には、この屋敷で隠居していた「吉良上野介」の像が置かれています。こちらは吉良の菩提寺華蔵寺(愛知県西尾市吉良町)にある座像をそっくり真似て作られたそうです。

「吉良上野介義央公座像」(墨田区)

平成24年(2009)6月に建立なので、意外と新しい像です。

首(みしるし)洗い井戸

「みしるし洗いの井戸」(墨田区)

赤穂浪士たちが吉良を討ち取り、その首を洗ったと言われる井戸。

昭和9年(1934)に地元(両国三丁目町会)有志が発起人となり、この「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、東京へ寄付をされたのがこの「吉良邸跡」です。

吉良家 家臣二十一士碑

「吉良家 家臣二十一士碑」(墨田区)
吉良家 家臣二十一士碑(墨田区)

主君のため敵討ちに赴いた赤穂浪士ですが、もちろん襲撃された邸内にも吉良を守るため犠牲となった家臣が居ました。

吉良上野介義央追慕碑

吉良上野介義央追慕碑(墨田区)
吉良の菩提寺である華蔵寺(けぞうじ)と墓。
敷地内にある「松坂稲荷大明神」(墨田区)

討ち入り後の”地所清め”のため、近隣から兼春稲荷が遷宮。後に上野稲荷と合祀され現在の姿に。

【元禄市】

この「吉良邸(本所松坂町公園)」では、毎年12月第二週の土日の二日間で「元禄市(吉良祭・義士祭)」が催されています。祭では赤穂浪士47士と共に、主君を守るため犠牲になった吉良家臣20士の供養が行われるそうです。

また、「吉良邸跡」を中心に、日用雑貨や食品の販売、甘酒やお酒などが振舞われるそうです。(※2020年は中止となっています。)

回向院(えこういん)…墨田区

「回向院」(墨田区)

義賊で知られる鼠小僧次郎吉の墓があり、江戸勧進相撲の開催としても知られているお寺です。

討ち入りを果たした浪士たちは、切腹を命じられた主君・浅野内匠頭長矩(ながのり)の墓がある泉岳寺を目指します。その前に休息を取ろう(※幕府側の様子を伺う為)としたのが、当時「吉良邸」のすぐ真裏にあった「回向院(えこういん)」でした。

ところが寺は、“明六つ(午前6時)前の出入りを禁ずる法”を盾に回向院は開門を許さなかったそうです。

因みに、赤穂浪士たちが吉良邸に討ち入ったのは午前4時が多数説とされており、約2時間後(=午前6時頃)には屋敷を後にしていました。

旧両国橋…墨田区側

討ち入り後の赤穂浪士たちの足跡を追います!

両国橋の東詰め

「両国橋の東詰め(赤穂浪士休息の地)」(墨田区)
「両国橋の東詰め(赤穂浪士休息の地)」(墨田区)

「回向院」に拒絶された赤穂浪士たちは、隅田川の川沿いにあるこの場所で休憩しました。

大高源五の句碑

両国橋のたもとにある「両国橋の東詰め」には、「大高源五の句碑(おおたかげんごのくひ)」があります。

「大高源五の句碑」(墨田区)

大高源五とは赤穂浪士の一人で、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手した人物です。

“日の恩や 忽ちくだく 厚氷”「おかげさまで、長年の恨みも氷が溶けるようにとけ(=本懐が叶い)ました」

ちなみに、奥に見える大きな石は、日露戦争で出征された戦没者の「表忠碑」です。

「大高源五の句碑」裏側(墨田区)
「両国橋」(墨田区)

討ち入り前…墨田区

こちらでは、討ち入り前の浪士たちの潜伏地をご紹介します。

前原伊助宅跡

「前原伊助宅跡」(墨田区)

赤穂浪士の前原伊助は吉良邸の探索を担当していたため、屋敷の裏手に「米屋五平兵衛」の名で呉服店を営んでいました。伊助は行商などをしながら情報を探る一方、“安売り五平兵衛”と呼ばれ店は繁盛していたそうです。

浪士の一人であった神崎与五郎も「小豆屋善兵衛」の名で共に暮らしていました。

安兵衛公園

「墨田区立 立川第二児童遊園(安兵衛公園)」(墨田区)

映画や芝居などでも有名な「高田馬場の決闘」で知られる堀部安兵衛の道場跡

数年前の完成した公園ですが、開園当時は”安兵衛公園”と書かれた沢山ののぼりが立てられていました。

「墨田区立 立川第二児童遊園(安兵衛公園)」(墨田区)

潜伏時代の安兵衛は”長江長左衛門”と称して剣術道場を開き、吉良邸討ち入りへの機会をうかがっていたそうです。

「墨田区立 立川第二児童遊園(安兵衛公園)」(墨田区)

この「安兵衛公園(道場跡)」から吉良邸までは徒歩で13~14分程度です。

園内に設けられた立て看板によると、討ち入り当夜の集合場所である三か所のひとつでもあったようです。

赤穂浪士休息の碑…江東区

吉良の首を討ちとった赤穂浪士たちは、主君・浅野内匠頭が眠る泉岳寺を目指します。

墨田区から江東区へ

「清澄白河駅」(江東区)

「吉良邸」などのある墨田区から日を改め、江東区「清澄白河」へと徒歩20分ほど移動します。

清澄白河は美しい「清澄庭園」で知られていますが、「ブルーボトルコーヒー」が日本に初出店したオシャレなカフェが多い人気の街です。

「萬年橋」(江東区)

隅田川に注ぐ小名木川、そこに架かるのが「萬年橋」です。江戸時代には富士山が綺麗に見えたため、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」や歌川広重の「名所江戸百景」などにも描かれた名所です

前後しますが、「吉良邸」から引き揚げた赤穂浪士たちは、堅川(※現在は川の上を首都高速7号小松川線が通っています)に架かる「一之橋」を渡って一の橋通りを南下しました。

右手の隅田川に架かる「新大橋」を過ぎると、萬年橋通りに。この通りには浪士たちを偲ばせる道や、ゆかりの「道高札」があります。

「清洲橋」(江東区)

「清洲橋」から今度は佐賀街河岸通りに移行します。

ちなみに、隅田川に架かる「清洲橋」と「永大橋」、さらに晴海通りが通る「勝鬨橋(中央区)」は国の重要文化財(建造物)です。

「平賀源内電気実験の地」(江東区)

発明家として有名な平賀源内ですが、近年は「土用の丑の日」のキャッチコピーを考えた人物としても知られています。

その平賀源内が安永5年(1776)、日本で初めてエレキテル(摩擦起電機)の修復修理に成功し、自宅があったこの場所で電気実験を行ったそうです。

赤穂義士休息の碑

「赤穂義士休息の地」(江東区)
「赤穂義士休息の地」(江東区)

乳熊屋(現・株式会社ちくま味噌)で休息し甘酒を貰う。昭和38年に乳熊ビルの会社入り口に石碑が建立されました。

実は、赤穂浪士の一人で俳人としても有名な大高滞吾は、ちくま味噌の創始者である竹口作兵衛とは其角の門下として俳界の友でもあったそうです。

永代橋…江東区側

「佐賀町河岸通り」(江東区)
「永大橋(東岸)」(江東区)

赤穂浪士一行は、前述した乳熊屋で休息した後、永大橋を渡って高輪泉岳寺(港区)へと向かいます。

途中には「浅野家内匠頭邸跡(中央区)」があり、吉良の首を掲げながら浪士たちはどのような気持ちで歩いたのでしょうね。

その後、浪士たちは幕府から切腹を申し付けられ、「泉岳寺(赤穂義士の墓)」へ埋葬されたそうです。

まとめ

古典芸能が楽しめる居酒屋「劇酒場 忠臣蔵」(墨田区)〒130-0021墨田区緑1-14-10 TEL080-6607-2964

「吉良邸跡」から「安兵衛公園」を経由し、「永大橋」まで徒歩でおおよそ5時間ほど掛けて赤穂浪士たちの足跡を辿ってみました。

現在では敵役である吉良に対して、同情的な意見や解釈などを聞くことが出来るようです。とは言え、寒風吹きさぶこの季節だからこそ、この道のりを辿りながら浪士らの追体験を味わってみてはいかがでしょうか。

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